抽象と具体

芸術とはどんなものであれ抽象的でなければならない。

具体的であればあるほど伝わらず、湾曲していくからだ。

愛と同じで、愛してる、だけですべてが伝われば苦労しない。

例えば、雨を表現したい場合、雨の音をそのまま録音したのでは面白味に欠ける。雨を思わせる曲を書けばイイ。

昨日クラシックの曲を彼女に適当に流してもらい、その曲を聞いてイメージしたものを言語化した。その曲は雨だれのプレリュードと言うタイトルだった。

例えばその曲のタイトルが無題なら、何かスッキリしない部分がある。雨をイメージするんだが本当に雨なのだろうか?と。

そこでタイトルがあると、「雨を想像したが、あっていた」と納得が出来、より雨に対するイメージが膨らむ。

ここで抽象性が軽減する。

いわば、無題の曲からイメージされるものは、壁一面に書かれた赤い色なわけで、タイトルがついてることにより、全体像が見え、その赤はチューリップの赤色なのだと気づくようなものだ。抽象性と言うのは、絵をありったけズームで見てるみたいなものなのだと思う。

そこで、曲を聞き、タイトルを見て、歌詞を見る段階に入る。歌詞を見ることにより次は自分自身に照らし合わせてその曲を聞くわけだ。

歌詞を見終わったあとはどうするか?作曲者について調べる。その作曲者のインタビューを見て、その曲のは真意の部分を見る。

それから、伝記だとかエピソード、発言を調べていくわけだが、ここへ来てまた遠ざかる。

浮気ばかりするアーティストの純愛について歌ってる曲だったりするわけだ。そこで、またそのアーティストとかけ離れてる曲について疑問に思ったりする。

アーティストと、そのアーティストから作られた作品は必ず同一のものとは限らない。それは、意識と無意識の違いだと思う。

いわば、インタビューやその制作者の実像は意識で作られたものだ。

それに対して、作品は抽象的で無意識に依存して出来た部分が大きい。そこで作品を見る上で解離が現れる。

アーティストは作品を見てもらい、理解されることを望むが、その作品を理解されたところでそれが自身の理解には結び付かない。

だが、自身を他人に理解してもらうためには芸術でないと伝えられない。

あらゆる芸術は詩的でなければならない。詩とはつかみどころのない、水に浮かぶ水蒸気みたいに危ういものだ。

その抽象や客観性、無意識と、具体と主観性、意識の真ん中の部分で出来ている芸術が一番難しい。

意識で作り上げられたものはつまらないし、意識だけだと対話してるようなもので見ていても疲れる。かといって、無意識で作り上げたものは面白いが、無意識だけだと成立しない。意識が少しないとあまりにも無秩序で、音楽ならノイズになってしまう。

自分の伝えたいものを伝える手段と言うものを考えながら10分練習してるやつの方が、8時間なにも考えずに教則本やテキスト通りに練習してるやつよりも遥かに上達するのはこういうことだ。

一音にこの狭間を込めれるやつだけが芸術家として成功すると思う。

最近の日本の音楽がつまらないのは、この抽象の少なさだ。具体的すぎてリアルすぎる。

見たことのないもの、つまり新しい自分の中の感情の表現方法を音楽の中に見いだす、幸せだと感じたときに聞く曲なら、その曲から無意識に幸せの感じ方、その幸せと言う感情に対峙したときの整理の仕方を学んでいるわけだ。

今の音楽はあまりにも、稚拙で、誰もが知っている手段での表現しかないからつまらない。

個性的な音楽とは、ある問題に対して、人と違うアプローチでそれを理解して表現していると言う場合が多い。

人と同じことをして同じ風に見ているやつには絶対に芸術が出来ない。

だから芸術家と言うのは頭がおかしい。

ところで、ブコウスキーはこう言ってる。

わからないことを難しく伝えるのがインテリ

わからないことを簡単に伝えるのが芸術家。

俺はインテリのようだ。