2017.7.18

本質の断片を表す言葉を耳にしたときは、どんなストーンよりも飛べる。

トーンするのはつまり、言葉を理解するためだ。

言語そのものは、最もプリミティブな幻覚剤、DMT(松果体)によって作られている。

俺は求める、本質を。生きている全ての物には影がある。

本質は無で、無は本質だ。全ては形を持たないが故に形成されている。

この世界はDADAの4文字によって構成されている。

意味は存在しないと言う意味が存在している先を越えて意味が存在しない。何故なら意味が存在することによって意味が存在できないからだ。

禅とは過程を表す、最も論理的に悟りを開くための唯一の手段。

哲学のように一方向から物事を眺めるのでなく、あらゆる全ての位置から全てを見る唯一の手段。

脳が錯覚を引き起こす。それを破壊するために俺たちはストーンする。

メルトダウンと共に後付けの意味は消え失せ、本質だけが残る。

俺はそれを眺める。ただ、眺めるだけで決して触れない。

でも無意味に耐えられなくなり、意味をでっち上げることになるだろう。また壊せばいいだけの話だ。シヴァは自由だ。シヴァは常に混沌と結婚しているから。

概念は不自然だ。また、理解を突き抜ける道の途中を通るために概念がある。概念を必要としないために概念を作り出す。

ピグミーの語感、犬の鳴き声、太鼓の響き、クーラーの室外機。

DADAは何も意味しないことを意味したがる。

厳密に言うならば、情報処理する脳がDADAを無意識的に否定してしまうからだ。 DADA自体に意味はない。雨が降り、川になり、海にたどり着き、水蒸気になり、また雨になるようにDADAが何も意味しないと言うのは自然であるからこそ受け入れるのが難しい。脳みその限界、言語情報化を強制されている脳の限界。

トーンするために神を信じ、愛を信じ、祈る。全ての人間は禅の境地に在り、禅とはこの世における地獄の具現化だからだ。

それは生きている証拠でもある。

死にかけている人間は禅から程遠い。生を望むと言う本能に対してのみ自己の行動を投影させるからだ。

禅から逃避するために人々苦しみ、悲しむ。ストーンにおけるバッドトリップでさえも、禅よりは苦しくない。痒みが一番の苦しみなのだ。人間は、人間の脳は、全てを理論化したくて仕方ないのだ。納得の方法がそれ以外に無いのだ。

理解、意味を放棄せよ。沈黙が全てを知っているが、風吹くときに音を鳴らす。

抗うな、ただ在るが形を受け入れよ。失明したサルトルのように。

否定こそも純粋な肯定になり得る。女の化粧が良い例だ。

LSDは無ほどはキマらない。

全てを内包する本質の周りをうろついているのが言葉だ。

存在、と言うもの自体が消え失せたときに俺はここに存在しているだろう。

シヴァ、シヴァ、シヴァ。

本質も存在も無い。神も愛も等しくない。

神を作ったのはとても自然なことだし、人間のあるべき姿なのだろう。

愛も同じく、感じるものと言うよりは信じるものだ。唯物論的に脳内物質の伝達により分泌されるのが愛であったとしてもだ、自然な反応だ。魂はその体を選んだのだから。

納得するためにこうやって言葉を構築していくが、やがて融解するだろう。

芸術は本質と言う理論的な、言葉的な無の断片であるからこそ抽象的なのだし、本質に触れるならば木屑のように芸術が生まれ、その芸術は本質を孕んでいる。意味しない、と言う美を。

肥大化し、ヒートアップした脳みそを沈めるものは、決して真実であってはならないからこそ、愛や神に人は依存する。

芸術は真実だ。真実はいつも苦しみの中にある。何故なら、この生自体が意味を持たないという本質に基づいて在るのだから。

何度も繰り返すように意味を持たないことに人は耐えられないほど苦しむように出来ている。だから芸術は生きている意味には決して成り得ない。

無はすべての答えだが、それは理解できない答えだ。

過程を言葉で埋めていき、ようやく理解できる答えだ。数学的だ。過程は不必要だ。納得したときには消えている、だが必要なのだ、壊すために形式化するのだ。

殺戮も、生殖も、矛盾も、受け入れるのが無だ。

思考しないようにするために思考することで思考しなくなる。無だ。

無は無意味を意味している。つまり無は無意味すら意味しないがゆえに意味という概念を孕まない。

 

そして俺たちは叫びたくなるはずだ。

「DADAは何かを意味したい。」

ニヒリズムを否定せずにニヒリズム自体が実存になるのが禅だ。

抗うことで抗わない、また、抗わないことは抗っている。

ほら、ゆっくりと吸い込み、吐き出せ。

リラックスしろ、全ては固執なんだ。

何も苦しむことはない、そもそもお前が苦しみを作り出しているし、苦しむことで苦しんでいない。

それでも俺は、生きている。