スラッジ禅問答

ダダは何も意味しない。

恐怖はただ恐怖という状態でしかあり得ない。

ものすごく怖い体験をすると、それを良かったものだと昇華する反応が頭でっかちの脳内で働く。

防衛反応だか知らないが、一時的に傷を癒すだけでドンドン悪化する。

例えば俺の場合は、日焼けサロンで焼いた肌にケバい化粧の親戚に何時間にも渡り毎月

「お前が悪い、お前が居るのが悪い、お前さえ居なければいい、お前が居るせいでダメになる。」

と責められた。

それを俺は良い体験立ったと思い込もうと、自慰行為に親戚に似た人物を使ったりしていた。

ドンドン分からなくなるのだ。怖かったのに、幸せだったに変わってくる。そして、自分にとって大切な人物ができたときに今の幸せに転換した怖さを伝えようとしたりする。

楽になる分錯覚を繰り返し続けて、気づいたときにはもう遅くなる。

俺の親父のパターンがそれだ。

「俺はお前を傷つけてしまった。だから誰とも関わらないでおく。」

40過ぎた、50近いいい年してようやく気づいたらしいが、にしても情けない達観だ。だが、それで気づいたことがひとつある。

自分がされて嫌だったこと、もしくはして嫌だったことに自己憐憫が混じっているか混じってないかを判断しなきゃならない。

「俺ってひどいことされた。しないようにしよう。」

ではなく

「俺ってあれが嫌だった。しないようにしよう。」

が大切だ。

「俺はお前の育て方がわからなくてひどいことをした。」

そんなことはどうでもいいのだ。

「お前の育て方がわからない。」

ことを肯定するのはどう考えてもおかしい。自己憐憫を他人に向けるのは絶対にしちゃいけないことだと思う。

俺はとにかく、嘘が嫌いだ。嘘が怖い。

どれが本当で嘘か、防衛反応を越えて感じよう、信じよう。それが乗り越える手立ての一つだ。

現在PTSD(性虐待)を再体験(奇跡的に相手の状態と自分のされてきたことが一致しただけ)したので、完全に恐怖が戻ってきた。

その恐怖をなんとか良いものにしようと無理矢理取り繕うのには疲れたし、メッキが剥げて中身が剥き出しなのにメッキ張りのフリしても何の意味もない。

ドンドン現在ある自己を削ぎ落としていきたい。それで残った骨組み、それが俺だろう。

その俺自身を認めるのは、他者との比較さえなければ大してつらくないだろう。

大抵の自己否定は他者との比較から来るものだ。日本が自分だけが1億人居る世界だと仮定したらどうなる?自分と自分を比較するか?

何かに特出した人間は何かに弱い。その弱さをかっこいい、と思うのは間違っている。

「あの人はこの作品を作ったから奥さんを傷つけてても納得できる。」

それはおかしい。

俺は、いや、全員そうじゃないだろうか。

「俺はこんな性格だが顔がいいからいいんだ。」

「顔は悪いが優しいと言われるし。」

そんなことはどうでもいい。

ただあるがまま自然な自分で居るのが一番楽だ。いつ否定意見を隠すために取り繕っている姿がばれるだろう、とビクビクすることもなくなるだろう。

とにかく他者を無視しろ。それで嫌う程度のやつなら切ってしまえ。だが、他者を無視する前に大切なのは自己欺瞞と自己憐憫を含まない自分の態度が必要不可欠だと思う。